July 21, 2013
不完全な社会。
学生の頃にいじめられた記憶がある。いじめを黙認した記憶もある。思い出すと切なくなるので詳しくは書かない。
それでも思う。いじめはなくならない。いじめを肯定しているわけじゃないけど、いじめが根絶されるなんてことはありえない。
「いじめを根絶しましょう」という掛け声はよい。「いじめをなくしましょう」という活動は必要なのだと思う。それでもいじめは、なくなるはずがない。むしろ、いじめがまったく存在しない社会の方が不気味だ。人間は社会を作って生きる習性のある生き物。そこに生まれる優越感、劣等感、嫉妬や恐怖が、時に理性の壁を越えて、攻撃性をまとって発現することは避けられない。いじめがまったく存在しない社会って、強烈な管理社会か、みんなが麻薬でも常用している社会だろう。
いじめはなくならない。だから、「いじめをなくそう」という試みと同時に、いじめが起きた時にはどうするか、ということを考え続けなくてはならないんだ。
いじめが存在しない理想郷を追い求めるのは結構だけど、いじめが存在することから目を逸らし、起きてしまったいじめをクソミソに糾弾しているだけじゃ、どこの校長先生も「うちの学校にはいじめはありません」と報告するようになるだけだ。
繰り返すけど、いじめを肯定しているわけじゃない。ただ、いじめはなくならない。そして、「いじめをなくそう」という活動と、いじめが起きたときの対応策の検討が、ずっと並存していくんだと思う。
僕らの住む世界は理想郷ではないが、弱肉強食の修羅の国でもない。渡る世間は鬼ばかりではないが、鬼もいることはいる。そのスッキリしない現実を受け止めなくちゃいけないんだろう。それが大人の態度、それが成熟した社会というものじゃないかな。
「傷つけられる人がまったくいない社会を」と言われてもウソ臭い。出来る限りは傷つけられる人を減らし、不幸にも傷つけられてしまった人を救済し続ける、そんな地道な主張の方を僕は支持する。
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